オロチのキモチ  冷涼とした朝の空気に乗せて、包丁とまな板の打ち合うリズムが室内の 隅々にま小気味良く響きわたっていた。鼻歌を交えながら奏でるのは、さ ながら朝食風景と言う名の平凡な二重奏。それはどこかのんきで、だけど 満面の活力に溢れた始まりの歌だ。  程なくして音が鳴り止むと、まな板の上には適当な大きさにざく切りさ れたほうれん草が横たわっていた。  彼女はそれをまな板ごと持ち上げと、傍らでくつくつと音を立てる鍋の 中に流し込むように放り込む。ほうれん草の深い緑に混ざって香ばしい狐 色がちらほらと見えたのは、前もって切っておいた油揚げの色だ。  そのまま具材がひと煮立ちしたことを確認すると、一端火をとめておた まに三分の一ほどの味噌を加える。火をつけたままにしないのが、美味し い味噌汁を作るポイントだ。  菜箸を使って味噌を解き解し、手早くコンロの火をつけなおす。沸騰し ないように注意しながら弱火に合わせる。仄かに湯気が上がってきたとこ ろで上澄みをおたまですくい、小皿にとって一口―― 「……うん。いい感じだな」  満足げに頷き火を止める。ふわりと沸き立つ白もやと共に、味噌の芳ば しい香りが辺りに立ち込め鼻腔をくすぐった。  そのまま鍋を掴んで背後の食卓へ。テーブルの上には既に塩鮭とほうれ ん草のおひたし。しらすをたっぷりと振りかけた大根おろしなど、これぞ 日本の朝食といわんばかりのラインナップが二人分、所狭しと並べられて いた。  その彩りの中央に持っていた鍋を置く。これで準備は万端。 「さて、と――」  天井を眺めため息をひとつ。 「やれやれ。相変わらずよく寝る奴だ」  頭全体を覆うように結んでいたターバンを解くと、諦めるように呟く。 そんなオロチの格好は、黒猫の乱舞する可愛げ一杯のエプロン姿だったり した。 ***  キッチンを抜けて玄関脇の階段を上に。目的は二階の一番奥の部屋。そ こにオロチが間借りしている家主――正確には家主の息子である獅子戸コ ウの部屋はある。  時間は午前八時の少し前。いつもなら直ぐにでも学校へ出かけなければ ならい所だが、今日は日曜。小学生は全般的に休日である。とは言え、最 近は日曜でも塾だなんだと忙しい場合もあるが、この家の場合はそんな状 況とは限りなく無縁らしい。  もっとも両親の方はそうも行かず、休日返上は当たり前。母親は毎日夜 は遅いし、父親に至っては泊まりがけも多いと言う。  そんな家庭状態で、まだまだ小学生とは言え男ひとり女ひとりをひとつ 屋根の下な状況をよくも許可したものだとオロチはつくづく思う。しかも その時に親子の間で交わされた会話が―― 「母ちゃん! 暫くコイツを家に泊めたいんだけど良いかな?」 「あらあら、コウちゃんってば……越してきてそんなに経ってもいないの  にもう女の子を家に連れ込むなんて、パパに似て大胆なんだから♪」  などと言う、半ばわけの分からないやり取りだけで、直ぐに決まって しまった。むしろ母親の方が乗り気だと言うのだからなんとも納得がいか ない。一応、それで良いのかと問い詰めてみたが、コウの母はいかにも人 の良さそうな顔に温和な笑みを浮かべ、 「それでオロチちゃん。お部屋はコウちゃんと一緒で良いかしら?」  等と、極限まで的外れな言葉が質問が返ってきたので、その時点で追求 するのは諦める事にした。後から聞いたことだが、コウの母親と言うのは、 いつも大体あんな感じらしい。大概疲れそうだと思ったが「母ちゃん、物 分りが良いから」と答えたコウのあっけらかんな笑顔を見て、なるほどこ れは親子だとわけの分からない感想を抱いたことを今でも覚えている。  とにもかくにも、そんなわけでオロチは晴れて獅子戸家の居候として迎 え入れられることとなった。無論、部屋は別にしてもらったが――  両親と言っても、父親の顔は未だ見ていないので二親から許可が出てい るのかは甚だ怪しいものだったがとかく親の許可が出た所で、この家に両 親が殆ど居ない――その間の家事をオロチが自然と受け持つようになった のもその為だ――ことには変わりない。これではまるで、同棲そのもので はないか。 「ど、同棲……」  それは今日ではない朝の。この家の玄関での光景―― 「まったく。だからあれほど夜更かしはよせと言ったろうに……ほら、  寝癖もちゃんと直せ」 「……ふぁーい」  目の前のぴんと跳ねた髪を撫で付けながら、エプロン姿のオロチはコウ を急すようにまくし立てる。だが返事の代わりに返ってきたのは、いかに も眠そうな眼とのんきな欠伸だけであった。 「やれやれ……」  もう高校生にもなったと言うのに、コウは未だに自覚がないらしい。ま るで大きな子供を相手にしているような気分になってくる――とはオロチ の談だ。  今朝も昨夜遅くまでやっていたテレビゲームの所為ですっかり寝不足。 さっきも朝食中にしきりに欠伸を繰り返していた。らしいといえばらしい のだが、オロチとしては呆れるほかない。ため息をひとつついて、諦める ように右手に握った手作り弁当の包みを差し出す。ちなみに包みがピンク の花柄模様なのは、彼女の趣味だったりする。 「ほら、弁当だ。まったく早くしないと遅刻するぞ……って、わぁッ!?」  弁当を受け取ると見せかけたコウの手がオロチの腕を素早く掴んだ。 抗議の声をあげる間もなくオロチの身体はコウの胸元へと引き寄せられる。 「こ、こらコウ! 何を――」 「いや。行ってきますの挨拶でもしようかと思ってさ?」 「あ、挨拶って……」  応えはなく、ただコウの顔がゆっくりと近づいてくる。真っ直ぐな瞳が オロチを捉えて放さない。  頬が焼けるように熱かった。口の中はすっかりと乾き切り、唾液がねと りと喉の奥に張り付いて、言葉が巧く紡げなかった。指の一本も満足に動 かせないのに、心臓だけがはち切れんばかりに高鳴っている。コウの顔が 直ぐそばにあるだけで、彼女の心はこんなにもかき乱される。 「こ、コウ……」  やっと紡ぐ事が出来た言葉は、囁きのように掠れた――しかし自分でも 驚くほどに甘えた声だった。  応えるようにコウはその顔に微笑を浮かべる。いつもはあどけない少年 の容貌が、こう言う時にだけ妙に大人っぽく見えた。  反則だ――と、オロチは胸中で呟きながらも、彼が望むであろうままに ゆっくりと瞼を閉じる。ベルベットのように柔らかな闇の中、胸の奥が仄 かに熱を持ったように暖かかった。 「……コウ」  鼻にかかるような猫なで声でその名を呟く。相手の息遣いを直ぐそこに 感じる。押しつけるように抱き合う胸元からコウの体温が熱いほどに伝わった。 身体を震わせるこの高鳴りは、コウのものなのかそれとも――  視界を断つ事でこそ逆に相手の存在をもっと近くに感じる事が出来るだ けの距離。それだけが二人の間に横たわる唯一のものだった。  オロチを抱きしめるコウの腕に力が篭る。身体を包む熱はさらに上がり、 頭がぼうっとする。互いの鼓動が混ざり合い、奇妙だが心地よいリズムを 刻んでいる。やがて二人はどちらからともなく唇を―― 「……チ……オ…チ……オロチ!」 「ふぇあッ!?」  耳元でいきなり響いた怒鳴り声に、オロチは一気に現実へと引き戻された。  弾けるように身を震わせた。慌てて周囲を見回してみても、周りには誰も いない……いや、居た。 「あ……ダ、ダークナイトか」  オロチの言葉に、肩の上の黒騎士は呆れるように肩を竦めた。 「ダークナイトか、では無い……階段の途中で何をしているのだ、お前は?」 「いや、その……何だ。いつから見ていた?」 「ふん。そうだな……お前が耳まで真っ赤にしながら獅子戸コウの名を呟い  ていたあたりだな」  恐る恐ると探るような問いかけに黒騎士は至極あっさりと答える。その言 葉にオロチの顔が真っ赤に染まった。まるで化学反応だ。 「……そ、その、何だ。わ、わたしは別にだなッ!」  わたわたと言葉を繋ぐオロチを制しながら、黒騎士はあくまでクールに告げる。 「別にお前と獅子戸コウがどうだろうと俺には関係ない。ただ階段の途中で  夢の世界に没入するのは危険だからやめておけと言っているのだ」 「あ、う……」  言われてから、自分がまだ階段すら登りきっていない状態であることに気付く。 慌てて二階の廊下へと飛び上がると、恨みがましい目をダークナイトに向けた。 だがまるで涼風で設けるような黒騎士の態度に、逆にどこか見透かされたよう な気分になり、結局は閉口するしてしまう。 「やれやれ……」  疲労を伴った声で肩を落とす。どうにもこの家に身を寄せてから何かがおか しい。何をしていても落ち着かず、自分のペースを掴めない。寝ても醒めても 気付けばコウの事を考えていて、そんな自分にふと気付かされて、また彼女の 心は千々に乱れてしまう。そしてそれが酷く愛おしい。デスフォースの手先と して振舞っていた頃には考えられないことだ。それは自分でも信じられないく らいに、充実した毎日だった。 「だけど……」  呟いたオロチの胸に痛みが走る。淡く切ない――しかしそれは抉るように鋭 い痛みだった。 「……分かっている」  自分に言い聞かせるように呟く。そう、分かっている。こんなままごとみた いな日々が、いつまでも続く筈はない。戦いはいつかきっと終わるだろう。 それはコウや仲間たちが、そしてオロチ自身が望む事でもある。  だが――と、消え入るような声で呟きながらオロチは俯いた。痛みは鋭さを 増し、胸を焦がさんばかりに締め付ける。  『オロチ』とは、いつか来るその時までの仮初の自分でしかない。失った記 憶を穴埋めするいびつなまがい物だ。戦いが終り、全ての記憶が戻ったとき、 果たして自分は『オロチ』を覚えていることが出来るのだろうか、この切なく も暖かな想いを、覚え続けていることが出来るのだろうか―― 「……どうした、オロチ?」  ダークナイトの問いかけに、オロチは答えなかった。答えられなかった。 ただ、胸に手を当てたままで俯き、わななくように肩を震わせていた。胸の痛 みは、いつの間にか耐えがたい苦しみへと変わっていた。  大声で叫んでその苦しみを吐き出してしまいたかった。しかし声は出なかった。 まるで胸にぽっかりと穴でも開いて、そこから声の変わりに空気だけがひゅう ひゅうと漏れているようだった。そしてそれがまた、たまらなく苦しい。 「……あ」  押し寄せる激情はもはや、耐えられないまでに大きくなっていた。  忘れてしまうことが哀しくて、忘れられてしまう事が寂しくて。でもそれだけ が本当の自分への唯一の救いである事に苛立って。自分を犠牲にして救われるも うひとりの自分がとても妬ましくて。そして何より自分が、獅子戸コウと共に 在る『オロチ』と言う存在が消えてしまう事が恐ろしくて―― 「消えたく、ないよ……」  呟いた一言と共に視界が歪んだ。駄目だ、とオロチは胸中で自分に言い聞かせる。  泣いてはいけない。この涙を零してはいけない。泣いてしまえば自分はきっと 耐えられなくなる。きっと大声で泣いてしまう。迷い子のように泣いてしまう。 それだけは駄目だ。絶対に駄目だ。  だけどもう―― 「オロチ?」  不意に耳に響いた声にオロチはびくりと身を震わせると、反射的に声のした方に 顔を向けた。 「こ、コウ……」 「どうしたんだよオロチ、そんな所で?」  視線の先にコウが立っていた。おそらく起きたばかりなのだろう。寝癖のついた 頭で、まだどこか眠たげな眼が訝しげにこちらを伺っている。そのうち、ふと何か に気付いたようにコウが声をあげた。 「オロチ、お前――」 「まったく、お前と言うやつは!」  遮るように声を張り上げるとコウが身を竦ませる。オロチは気取られないように 顔を背けて涙を拭い去ると、気丈を気取りながら大股でコウに歩み寄った。 「休みだからと言ってこんな時間まで寝ているとはたるんだ奴だ。ほら、こんなに 寝癖もついて……少しは部屋を出る前にブラッシングでもしたらどうだ?」 「何だよ、今から顔を洗いに行こうと思ってたんだよ……わ、こら、触るなって」  ぼさぼさに乱れたコウの髪を手櫛で撫で付けてやる。コウは暫くの間、探るよう な視線をオロチに向けていたが、やがてどうでもよくなったのか、くすぐったそう に身をよじってオロチの手から逃げ始めた。 「良いから、じっとしてろ……ふむ。こんなものか」  子犬のようなコウの仕草にオロチは苦笑。やっぱり彼はまだまだ子供だ。オロチ は気を持ち直すと、きびすを翻し階段へ向かい―― 「ほら、さっさと降りるぞ。朝食が冷める」 「ん……あ、オロチッ!」  オロチの腕をコウが掴んだ。まるであの白昼夢のように力強く―― 「お、おい。コウ……!」 オロチの胸が一瞬にして高鳴った。先ほどの具にもつかないくだらない妄想が今更 のようにフラッシュバックして全身を駆け巡る。  馬鹿げている――そう思っていても、胸は早鐘を打ち続け、頬は勝手に紅潮して いった。オロチはともすれば散逸してゆく意識をかき集め、大きく深呼吸。 一回、二回と肺の中に酸素を送り込むごとに、徐々にではあるが落ち着いてきた。 「……な、何だ?」  一拍の間を置いて、なるべく不自然にならないように振り返ると、コウがじっと こちらに視線を送っていた。そこでまた胸が高鳴りそうになるが、それを理性でもって 無理やりに沈静化。大丈夫、と何度も自分に言い聞かせながら、なるべく無表情を意識する。  少年故の真っ直ぐな――その奥に静かな力強さを持つコウの瞳。敵であった時は 真っ向から、仲間になってからは傍らで感じていたそれを、オロチはほんの少しだけ 苦手だった。  この瞳で見つめられると、どうにも調子が狂う。嘘がつけなくなる。虚勢を張れなくなる。 辛いことを辛いと素直に言ってしまい、その背中にもたれ掛かりたくなる。コウの 持つ強さに、すがりたくなる。  だからオロチはコウの瞳が――全ての嘘と強がりを取り去って、弱い無垢な自分を 晒してしまうその瞳が大好きで、そして少しだけ嫌いだった。 「どうした、コウ?」  少しだけ目を逸らしながらもう一度尋ねると、コウは掴んでいた腕をゆっくりと離した。 「いや……何でもない」  オロチはそうか、と簡潔に答えてコウに背中を向けると、そのまま何事もなかった かのように階段を降り始めた。足取りは最初ゆっくりと。だが徐々に足早に。 「あ。おいッ!?」  大丈夫、と胸中で幾度となく呟いた。戦っていけると何度も自分に言い聞かせた。 消えてしまうかもしれないことは少しだけ怖いけど、それがきっと誰もが幸せになれ る方法だと信じているから―― 「オロチ! 待てって!」  だからこの気持ちは決して言わない。決して伝えない。これは夢だから。まがい物 が見る淡い幻だから……だから、言わない。  だけど―― 「なあ、ちょっと待てって!」 「早くしろ……ばか」  背中越しに聞こえるコウの声にそう呼びかける。言葉尻に込めた僅かだけの淡い―― 気付かれる事ない想いの欠片を込めながら、オロチはひとり寂しげに微笑んだ。 -了-