『ガチャフォースB−FINAL』 作品内時刻 2011年 4月30日 (コウ=大学1年生)  2011年4月30日。  昨日から始まった今年の大型連休は、5月の2日と6日を除けば10日間も続く長大なものだ。  4月の末日に当たる今日は、まだ連休の2日目で、多くの人が各地で羽を伸ばしている時期なのだが、中 学一年生の錦織信(ニシキオリシン)は在宅を余儀なくされていた。仕事のためである。  4月のうちに13歳の誕生日を済ませたシンは、6歳年上の従姉弟である錦織凛(ニシキオリリン)とふ たりきりで立派なマンションの一室に暮らしていた。中学生が仕事を持ち、学生二人が高価な部屋を借りて いることに疑問を持つ人もいるだろうが、理由は大したことではない。  シンの仕事とは国家レベルのプロジェクトであり、二人の生活は政府からの支援を受けているというだけ のことだ。  時計が午前9時の鐘を鳴らすころ、シンはリンの部屋から薄手の掛け布団をひっぱり出した。そのままリ ビングへと足を向け、ソファを占領して眠っているリンのところへと近づく。もう5月が目の前に迫ってず いぶん暖かくなったとはいえ、ショートパンツにタンクトップというリンの服は余るほど軽装だった。  男子中学生の前でこんな格好を見せるなと心中に吐きつつも、呼吸に合わせて上下に律動する胸に目を奪 われそうになったシンは、ややあわてながらリンに布団を掛けていく。終わったところでリンの呼吸に乱れ が無いことを確認し、リンの眠りを妨げずに済んだことに安堵してから、シンは自分の部屋にもどった。  机の引き出しを開けて財布を取り出すと、無造作にズボンのポケットに突っ込み、玄関の鍵を持って自室 の外へ出る。  リンがリビングで眠っている以上、同じ部屋にあるキッチンで料理をし、音を立てるわけにはいかない。 自炊よりも割高になってしまうが、今日の昼は中食で済ませるしかなかった。  部屋を出てからエレベーターに乗り、いつものように1階のスイッチを押す。下へと動き出したエレベー ターが発生させる浮遊感に身を委ねながら、シンはため息をついた。  リンは同居を始めるちょっと前まで、その名の通り凛とした女性であった。しかし今年の3月に恋人であ る鷹見翔(タカミショウ)と大ゲンカを繰り広げてからは、今のような体たらくである。今年の4月から中 学に上がった自分を家に同居させた目的も、ショウへの当てつけが大きかったに違いない。  そこまで分かっていながら同居する気になった自分も自分だが、姉のように慕っているリンのことを放っ てはおけなかったのだ。  チン、とベルが鳴り、エレベーターが目的階への到達を告げる。シンは精神的に重くなった体を動かそう としたが、目の前からかかってきた声に動きを封じられた。 「おや、お出かけですか?」  声の主は荒木優二(アラキユージ)だった。まだ十代だというのに、スーツ姿が板についている。  1年前、ユージはガチャフォースとして共に戦った仲間が次々に進学を決めていく中で、ただ一人就職す ることを選択した。本人は自由意志での希望だと公言していたが、政府が半ば人質の目的で彼を雇ったこと は仲間の誰もが理解している。  シンにとっても、ユージは尊敬できる人物だった。いまユージが就いている役職のせいという理由もあっ たが、そのことを差し引いてもユージの人格は尊敬に値すると、シンは思っている。 「はい。ちょっと買い物に」  エレベーターの“開く”ボタンを押しながらシンが返すと、ユージは手招きして降りてくるように促した。 ボタンから指を離し、数歩進んだシンの背後でドアが閉まったとき、ユージは再び口を開く。 「連休のおかげでみんな遊びに行ってしまったでしょう? だからせめてリンさんのお顔でも拝見できれば と思ったのですが、君が料理をしないということは……」 「ええ。面会謝絶です」  シンは苦笑まじりに返答した。リンは出かける相手と時間を持っていながら、岩のように動こうとしない のだ。 「そうですか……せっかくの休日なのに友達に会えないというのは、なかなか辛いものですね」 「でも、コタロー先輩なら家にいると思いますよ」 「ああ、コタロー君は残っているんでしたね。それじゃあ、ちょっとお会いしてきますよ」  ユージは上着のポケットから車のキーを取り出し、駐車場の方へときびすを返した。その背中に向かって、 シンは思い出した問いを投げかける。 「次に行くのは、明日でしたよね?」 「ええ。そのあと数日の調整をすれば、いよいよ完成です。お披露目の日にはガチャフォースのみんなも戻 ってくるそうですよ」  振り返って答えたユージは、もういちど歩き出すとそのまま建物の陰に消えていった。 「そっか…いよいよ完成か」  感慨深く独白したシンは、心を躍らせながら春の道を駆けていった。 2、  サイドブレーキを引き、シートベルトを外してから、ユージは車を降りた。ここはサハリ町住宅街にある 空き地である。  外からドアをロックし、車のキーをズボンの右ポケットに入れると、ユージはサイドミラーの角度を手動 で変えて、身だしなみのチェックを始めた。若年でありながらガチャボーグ研究所の副所長、およびGFコ マンダー訓練生の教官という重要ポストに就いているせいで、年齢を重ねた人々から細かい身だしなみを指 摘されて「これだから予算ほどの成果を挙げられんのだ」と鼻で笑われることを、これまでに何度か経験し ていたせいである。  無論コタローの家に行く程度で、そのような目に遭遇することは考えられない。しかし役職上、ユージは コタローの先生である。気の抜けたところは見せられないという気負いが、ユージにミラーを覗かせていた。  目立っておかしい箇所は無い。しかしシートに座ることで付いた細かいしわが気になるのか、ユージは手 のひらでゆっくりと腰の辺りを撫でながら、50メートルほど先にあるコタローの家を目指して歩き始めた。  これから会いに行くコタローという少年は、8年前のデスブレンとの戦いでは貧弱な戦力でしかなく、特 にガチャフォースに入りたての頃などは、上級生に助けてもらう場面が多々あった。しかし、そんな小さな 子も、今では中学3年生になっている。  ユージが勤めているガチャボーグ研究所には、現在20名の訓練生が所属しているが、その中でデスブレ ンとの戦いを経験したのはコタローひとりだけだ。彼の持つ現行最強のGFコマンダーという名声に加え、 実戦の経験も備えていることが憧れを助長させるせいか、訓練生たちは誰もがコタローを目標にしながら日々 の研鑽(ケンサン)に励んでいる。  しかし女子の訓練生にとって目標以上の存在になってしまうことも、これまで度々起こっていた。その度 に指導役であるユージは頭を悩ませたものだが、コタローは結局のところ、誰とも関係を持つことは無かっ た。そうなったのは兄貴分であるコウの鈍さが伝染していることが原因だろうと、ユージは結論付けている。  両脇を塀で目隠しされた細い道を進むと、T字路に突き当たった。ユージが道を左に折れると、5メート ル先の左側にコタロー家の玄関が見える。ここから呼び鈴を押すまでに1分もかかるか怪しい距離だったが、 ユージは何故かいきなり身をひるがえして、T字路の角に隠れた。  頭だけをそっと角から覗かせて、玄関前の様子を伺う。すると、そこでコタローと女の子が会話をしてい るのが見てとれた。 「あの……発表会が終わったら、一緒にさばな市に行きませんか?」  言ったのは女の子のほうだ。頬を赤らめていることから察すれば、彼女にとっては告白にも等しいほど勇 気を必要とする行為だったのだろう。  ユージは女の子の顔に見覚えがあった。訓練生の一人、三枝奈々(サエグサナナ)である。  今年で中学一年生になったナナは、海原美魚・真魚(ウミハラミナ・マナ)の姉妹と家が隣同士で、ふた りからは妹のように可愛がられている。海原姉妹との仲の良さは、三人で行動するときに、よく三姉妹に間 違えられるほどだ。GFコマンダーとしての素養は高く、総合な実力ではコタロー、シンに続く三番手の位 置にいる。しかし狙撃の命中率に限って評価すれば、彼女の右に出る者は誰もいない。  緊張しているナナとは対照的に、ぼんやりした声でコタローが返す。 「でも、せっかく訓練が休みなんだぜ? 俺よりミサキたちと遊んでた方がいいんじゃないか?」 「いえ。私はその、コタロー先輩と一緒の方が……」 「なんで?」  あまりに茫々(ボウボウ)とした態度のコタローに、ユージはいつもと違う理由で頭を抱えた。 「あ……あの、それは……」  ナナは紅潮した顔を地面に向けながら、しどろもどろになる。  そこへ追い討ちをかけるように「どうしたんだ?」と言いながら、コタローはナナの顔を下からのぞき込 んだ。いきなり間近に出てきたコタローの顔に驚いて、ナナは反射的に飛びのく。  すると、間合いが開いたことで撤収するのにいいタイミングだと判断したのか、ナナは 「じゃ、じゃあ発表会の日にっ……!」  とだけ言い残しながら、奥の道へと一目散に駆けていった。 「なんなんだ、ナナのやつ……?」  まだ鈍感な反応を崩さないコタローを尻目に、ユージはいたずらを思いついた子供の顔で、車へと戻るこ とを決めた。 「えへへ……誘っちゃった」  誰もいない河川敷で体育座りをしながら、ナナはひとり呟いた。  胸の鼓動はだいぶ治まっているが、先ほど目の前にあったコタローの顔を思い出すと、心臓の下半分が締 め付けられて、上に飛び出してきそうな感覚が襲ってくる。頭を下げ、上目遣いに川の流れを見つめるナナ の思考には、発表会当日のイメージがはっきりと映っていた。  史上初の人工ガチャボーグと共に、ステージに立っている自分。それを遠くから優しく見守っているコタ ロー。発表会が終わったら、研究所から少し離れたところで待ち合わせて、さばな市を二人で並んで歩いて いく。 「コタロー先輩、きっと、私と一緒に来てくれるよね・・・・・・?」  思いをはせるうちに、心音はどんどん高鳴っていく。まるで、心臓を破いてしまうかのように――。 「わっ!!」  とつぜん背後で発せられた大声に、ナナは心臓を押さえて立ち上がりながら「ひゃあっ!!」と奇声を上げ た。 「油断はいけませんよ、ナナさん」  背後から聞き覚えのある声がする。しかしナナは心臓の鼓動を抑えるのに必死で、振り返る余裕などない。 「重要な任務を果たしたあとこそ、アクシデントに備えて心構えをしておくべきです。古来、日本武道には 残身というものがありまして……」  ここでナナは後ろを振り返り、長くなりそうな解釈を大声で遮った。 「おどかさないでください! 私の心臓を止めたいんですか!」  普段はおとなしいナナも、今回ばかりは抗議の声を荒げた。  しかし、ナナの前にいる人物――ユージは、それでも自分のペースを崩さない。 「いやいや、私は心配をしているのですよ。約束を取り付けても、どんなアクシデントで破談になるか分か りませんからね。常に気を引き締め、最大限の警戒をしていないと……」 「なんで約束のことを知ってるんです?」  じとっ、と半目で睨まれて、ユージは語勢をストップさせた。 「立ち聞きしたんですか? 最っ低ですね」 「いや、あの、それはですね……」  先ほどのナナと同じくらい、ユージの発言はしどろもどろになっている。ユージ頭を回転させてどうにか 自分の理論を探り出し、親の前で言い訳をする子供のように弁明を始めた。 「さ、先のことなんて、分からないではありませんか。明日のシン君のテストで結果が悪ければ、発表会が 延期になるなんてことも……」 「いじわるばかり言う人って、嫌いです」  訓練のときに見せる狙撃のような正確さで、ナナはユージの精神を撃ち抜いた。手塩にかけた訓練生に嫌 いだと宣言されてうなだれるユージをよそに、ナナはツンとそっぽを向きながら、土手の向こうへと歩き去 っていく。  ナナの背中が土手の向こうに消え、河川敷にひとり取り残されたとき、ユージはぼそりと呟いた。 「すみません、ナナさん。その約束は、絶対に叶わないんですよ……」 3、  翌日の正午、シンは車中の人となっていた。  いつもなら自転車で研究所に向かうのだが、今日に限って、シンがマンションを出たところで待ち伏せす るように研究所の車が置いてあったのだ。  わざわざ車で迎えに来るなんて普通じゃない。今日のテストには何かがある。シンは後部座席に座りなが ら、強張らせた表情で運転手の方をにらんだ。  前部に座って車を運転しているのは、ユージの補佐役である六節香子(ロクフシキョウコ)だ。  キョウコは170センチ近い背丈を持っており、乱れ一つない黒のパンツスーツにノーフレームの眼鏡、 黒髪のショートカットという取り合わせが、高潔で知的な印象を与えてくる女性だ。  男子の訓練生からは「カッコいい」と好評だが、シンは硬質さを感じさせるキョウコがどうにも好きにな れなかった。以前、ユージから聞いた話では、キョウコは元々ガチャフォースとは縁の無い生活をしていた そうだが、ユージが研究所に雇われるときの交換条件として、ガチャフォースメンバーの進路に干渉をしな いことと同時に、キョウコを補佐役として付けることを挙げたという。しかし、ユージがどこでキョウコと 出会ったのか、なぜガチャフォースとは無関係だったキョウコを補佐につけたのかは、聞いても理由を答え てくれなかった。  シンが表情を変えぬまま、ルームミラー越しにキョウコの顔を見る。すると、シンの緊張を解きほぐすよ うな柔らかな声色が、キョウコの口から流れてきた。 「そんなに構えなくても大丈夫よ。今日のテストは、短時間で済むものだからね」  言いながら、キョウコが右にハンドルを切る。角を曲がるのはこれが最後で、あとは2分ほど直進すれば、 研究所の外門に到着する。  シンはキョウコが感情を乗せた言葉を出してきたことに驚いた。いつも事務的なことを無機質に話すだけ の人だと思っていたが、よく話してみれば意外と優しい人なのかもしれない。  しかしキョウコが普段どおりに話さないということは、やはり今日が特別な日であることは間違いなさそ うだ。 「もしかして、実機で戦闘をやるんですか?」  シンはシートから背中を離し、前傾姿勢になりながらストレートに尋ねた。  キョウコは一瞬口ごもったが、すぐに「その通りです」と返してきた。先ほどよりも固さを帯びた声色だ が、それでもまだ柔らかい。 「相手は誰なんです?」  シンは体制を変えぬまま、質問を重ねた。今のキョウコなら答えてくれるだろうと踏んでの行動である。 しかしキョウコは視線をフロントガラスの向こうに固定して、シンの存在を遠くに追いやると、「現状で知 るべき事項ではありません」と質問を一蹴してきた。いつもどおりの硬質な声だった。  シンは体勢を戻し、再びシートにもたれかかった。視線を車窓に移しながら、やっぱりこの人は好きにな れないと、心中にぼやいた。  外門で警備員からの身分チェックを受けてから、シンは車から降りた。駐車スペースは少し離れた地下に あるので、キョウコが車を置きに行くのに付き合うよりもここから歩いていった方が、研究所に着くのはい くぶん早くなる。  外門から2分ほど歩いて、研究所の正面玄関に到着する。その前にシンが立つと、ガラス張りの自動ドア が左右に開いた。ガチャボーグ研究という重要機密を扱っていることを考えれば、ガラス張りの玄関など論 外に聞こえるが、この研究所が機械工学の研究施設という建前で住民の理解を取って建てられている以上、 あまり軍事要塞のようにはできないという事情があった。  ドアをくぐってロビーに出る。円形をしているこの部屋は、いつもなら3・4人の訓練生が配置されたソ ファに座りながらお喋りを交わしている場所なのだが、今日に限って、その喧騒は聞こえて来ない。今日の 日程にはシンのテストしか入っておらず、他の訓練生がまとめて休みになっているせいだ。高待遇という対 価が得られるとはいえ、ここの訓練は地獄である。みんな、トレーニングの無い日には研究所に近寄りたく ないのだろう。  シンは入口左側に備えられたカウンターの中にいる、受付兼警備員のスタッフに軽く会釈をすると、ロビ ーから左右に伸びる通路を右へと進んだ。通路の上に掲げられた案内表には<実験施設>とあるが、これも 表向きのことで、実際には訓練生たちの更衣室やトレーニングルーム、訓練用ガチャボーグの格納庫などが 存在している。  ここもロビーと変わらぬ静けさで、シンはいつもより早足で通路を進んだ。が、角をひとつ左に曲がった 先にある更衣室の前まで来て、ピタリと足の動きが止まった。通路の突き当たりに見えるトレーニングルー ムの扉の前に、誰かがしゃがんでいるのが見えたせいだ。 「……誰だ?」  シンが呟いた。しゃがんでいる人物とは10メートルほどの距離があったが、静かで狭い通路には音がよ く響いた。シンの声に気づき、人物は立ち上がる。 「シン君!」  立ち上がるなり、人物はシンに向かって猛突進してきた。シンは驚いて目を見開くと、あわてて振り返り、 通路を全力で逆走し始める。 「ちょ、ちょっと待って! 止まってよ!」  シンの後方から叫び声が聞こえてくる。その声が聞き慣れたものであったことが、加速した足を止めさせ た。止まったシンは、もう一度トレーニングルームの扉へと向き直る。 「もう、いきなり逃げることないのに……」  シンの眼前で呼吸をわずかに乱しながら、人物は言った。人物の身長はシンの背丈よりも一回り低く、小 柄できゃしゃな印象を受ける。シンはよく見知ったその人物に向かって、眉間にしわを寄せながら、感じた 疑問を率直に投げかけた。 「ナナ、何でここにいるんだ?」  言ったシンの顔つきは、珍獣でも見るかのようである。休みの日に研究所に来るだけでも奇特なのに、ソ ファーがあるロビーではなく、通路の地べたに座って待ち伏せをしているなんて、もはや奇行としか言いよ うが無い。さらにナナの口から「何って……シン君の応援だよ?」と返ってきて、シンは目の前がゆがむほ どの脱力を覚えた。 「今日テストするのは、俺の専用機だぞ? 専用機のテストは訓練生にも非公開だって、俺と同じ待遇のオ マエなら、良く知ってるだろう?」   シンが“同じ”だと言ったのは、専用機を与えられた訓練生という点である。  新たに開発された人工ガチャボーグには、40機の訓練機と25機の量産機のほかに、2機の専用機が存 在している。専用機のコマンダーは、訓練生の中で上位にいる者から選抜試験によって選ばれ、結果として 総合2位のシンと、総合3位のナナがコマンダーに選定された。  ナナの専用機はすでにテストを終え、発表会に向けての最終調整が行われている。シンよりも先の行程を 進んでいるナナが、テストが非公開であることを知らないはずはないのだ。  しかし、ナナは平気な顔で「うん、知ってるよ。けど、それでも応援に来たかったの」と返してきた。 「……変なやつ」  表情を崩さないまま、シンがぼそりと呟く。すると突然、ナナの顔色が緊迫したものに変わった。 「何をグズグズしている?」  シンにかかってきた声は、ナナのものではない。背後から別の誰かが発したものだ。頭の上から降ってく るように聞こえることから、大人のものであることは容易に判別できる。  シンはくるりと後ろを振り向き、視線を上げて声の主と正対した。目の前にいたのは50代後半と思われ る小太りの男で、その背後にはユージとキョウコが控えている。男の目は睨むように細くなっていて、背の 低いシンには、それが見下しているように感じられた。 「ご無沙汰しております、所長殿」  かかとを揃えて背筋を伸ばし、気をつけの姿勢をとりながら、シンは慇懃に言った。むろん、建前上の行 為である。研究所の所長とは言っても、この人物が研究所に姿を見せることはほとんど無い。シンと会った のも訓練生として研究所に入ったときに、式典で長々と励ましの言葉をもらったとき以来である。研究所に 備えられた所長室も普段はユージが使用しているので、この人物が名目だけの所長ということは、訓練生の 年少組でさえしっかりと把握していた。  シンにつられて、ナナも直立不動の姿勢を取る。所長は一つ咳払いをして、再び何かを言い出す気配を見 せた。しかし、絶好のタイミングでユージが割り込んでくる。 「シン君の専用機はトレーニングルームの地下に用意してあります。急ぎなさい」 「はいっ!」  言うやいなや、シンは更衣室の扉をくぐり、中に消えていく。シンと違って行く当ての無いナナはおろお ろとするばかりだったが、急に所長の前へ出てきたキョウコに腕を引っ張られ、応接室の方へと連れて行か れた。  所長は目の前の急展開が飲み込めず、付いていけない様子だったが、 「さあ、では地下へ参りましょう」  とユージに促されて、ようやくトレーニングルームへの歩みを再開させていった。 4、  シンは更衣室を出た。先ほどまで身を包んでいた私服はロッカーの中に吊り下げられ、今は訓練生用のト レーニングウェアがシンの体を包んでいる。  トレーニングウェアのデザインは、8年前のデスブレンとの戦いの際にショウが着ていたものをベースに したものだ。ただし、色は黒と紫という暗いイメージのものから白と青に変更されており、訓練生であるこ とを示すナンバーが左右の二の腕に刺繍されている。シンのナンバーは“1”だ。  一年前、初訓練のときに配布されたユニフォームにこのナンバーがつづられているのを見て、不可解に思 ったシンは「このナンバーには意味があるのですか?」と教官であるユージに質問を発した。実力順か訓練 生への選抜順であればコタローが1番であるはずだし、学校と同じに苗字の50音であればミサキが1番に なるはずだ。自分が1というナンバーをもらう理由など何も思いつかないシンに対して、ユージは他の訓練 生に聞こえないよう、ささやくように答えを返した。 「君は、いつまでも誰かの後ろにいるような人じゃありません。人の先頭に立って歩ける人物になれるよう に、1というナンバーを贈ったのですよ」  言葉が終わった瞬間に、シンは目を見開いた。自分の心が、ユージに見透かされていることに驚いたせい である。  シンは小学校5年生に上がってから、従姉弟であるリンを女性として意識するようになっていた。しかし、 当時高校2年生だったリンには既にショウという恋人がいた。まだその頃、シンはリンたちのガチャフォー スにまつわる話は知らなかったが、それでもリンのそばにいるショウが、自分とは比較にならないほど強い 絆でリンと結びついていることは理解できていた。  もちろん、リンを取られて悔しくないわけなど無い。ショウに少しでも落ち度があったなら、その隙にリ ンを自分の物にしてやろうという欲望は常にあり、シンはその機会を虎視眈々と狙っていた。だが、そんな 機会が訪れることは一度として無かったのである。それどころかシンは、誰よりも強くて格好いいショウに、 いつのまにか憧れを抱くようになっていった。  ショウも、いつも後に付いてくるシンを可愛がってくれた。今思うと、デスブレンとの一件によって家族 を失ったショウにとって、自分という弟分ができたことは嬉しいことだったのかもしれない。  兄貴分であるショウが前を歩き、弟分のシンが背中についていく。何の疑いようも無い、強固に確立され た人間関係が、2人の間にできあがっていた。  だが……シンの心の底には澱(おり)が溜まっていた。  澱の正体は、心の主であるシン自身にも分からない。ただ、ショウの背中を追おうとする度に澱が溜まっ ていくことだけは確かなようだった。  このままショウの背中を追い続けていいのだろうか。その疑問符が膨れ上がってきた頃に、ユージはシン に“ナンバー1”を贈ったのである。 「誰の後ろでもない、俺の道を行かなきゃいけないんだ……」  ユニフォームの右肩につづられたナンバーを左手で握り締め、シンは右にあるトレーニングルームの扉を 見据えた。この奥には、自分の専用機――シンしか使えないガチャボーグが待っている。 「お前となら、道を見つけられるのか? アクイラ……」  パートナーボーグの名を呟きながら、シンはトレーニングルームの扉へと、己の足を進めていった。 5、  トレーニングルームの1階部分は板張りになっていて、見た目はシンの通う中学校にある体育館とほとん ど変わらない。今日は誰の姿も無いが、普段はここで訓練生の体力を強化するプログラムが行われている。 プログラムのしんどさは、対価として支払われる高待遇の生活を投げ出してでも逃げたくなることで有名だ。  訓練生の中には、どうしてガチャボーグを扱うだけなのにこんな地獄のトレーニングをするのか、という 声も当初はあった。しかし、実際に訓練用のホワイトシグマ――デスボーグ・シグマをベースに開発された 訓練機――を扱うようになってからは、不満の声は一切聞かれなくなった。GFエナジーの放出には、体力 的・精神的な疲労がつきまとうためである。  コウたちのガチャボーグは意志を持っているため、コマンダーから送られてくるGFエナジーをどう出力 するのかを自身で決めてくれている。だから、コマンダーはガチャボーグの一挙手一投足まで管理する必要 は無い。  だが訓練生が使用する人工ガチャボーグは、どの機体も知能を持っていない。そのためボーグにGFエナ ジーを送信するのに上乗せして、手足を動かすための命令を送信してやらなければ、まともに歩くことさえ できないのだ。当然、コマンダーにかかる負担は段違いに大きくなる。 「なんだか、あやつり人形みたいですねぇ……」  ホワイトシグマを受け取ったときに、ナナがシグマの細い手足を指で動かしながら言った言葉だ。人間の 全身全霊をこめて操作するあやつり人形。人工ガチャボーグの例えとして、これ以上の言葉はないだろう。  シンは入り口から直進してトレーニングルームを横切り、反対側の壁に取り付いた。何の変哲も無い壁の 一角に、開いた右手を押し当てる。すると赤い横長の光が指先から手首の方へと走りぬけていき、続いてシ ンの目線の高さにある壁の一部が左にスライドする。そうして現れた10センチ四方ほどのガラス窓の中央 には、一眼カメラのレンズのような物体が、ガラスの向こうからシンの瞳を覗いていた。  指紋と網膜による認証。トレーニングルームに入るまでのセキュリティよりも明らかにハイクラスのもの が採用されているのは、もちろんこの先のエリアが極秘の情報であふれているためである。  網膜のチェックが終わると、シンの立ち位置より1メートルほど左にある壁が奥へ後退し、大人一人が通 れるほどの通路が出現した。訓練生でも許可が無くては入ることを許されない、地下研究所への入り口であ る。  通路に入ると、すぐ右に下り階段がある。そこから下の階に降りると、10メートルほどの直線の通路が 現れた。脇目もふらずに淡々と通路を通り過ぎると、突き当たりの右側に、再び下り階段がある。セキュリ ティ強化のため、一気に研究所まで下りられる階段は作られていない。面倒でも、こうして短い階段と通路 を交互に通過しながら降りていかなくてはならないのだ。  階段を4回降りたところで、通路の先にエレベーターが設置されているのが見えた。シンはドアの横に立 ち、研究所への立ち入り許可を与えられた者に配布されるカードキーを使って、エレベーターのドアを開け る。ゴンドラに乗り込んだら今度はパスワードを入力して、地下深くにある研究所へと続くエレベーターを 作動させる。  これだけの面倒な行程を経て、シンはようやく研究所にたどり着くことができた。  エレベーターのドアが開くのと同時に飛び込んできた映像は、真っ白な壁と床に囲まれた、巨大な部屋だ った。先ほど通ってきたトレーニングルームよりも一回り大きなこの部屋が、人工ガチャボーグの実働実験 施設である。  エレベーターから降りたばかりのシンが立っているのは、その上部に張り巡らされたキャットウォークだ。 ここと実験施設の内部とは透明な防御壁で隔てられているだけなので、何の障害も無く内部の様子を見るこ とができる。今日はアクイラの実戦テストを、ユージと所長がここから見ることになるのだろう。  ユージと所長が先に行ってから、もうずいぶん時間がたっている。早く研究施設の方へ行ってアクイラを 受け取らなければ、予定時刻に遅れかねない。だがシンはその場で立ち尽くしたまま、真っ白な実験施設の 中になぜか一箇所だけ存在する、黒い床を見つめていた。  かつてこの場所は、デスブレンのサハリ町における前線基地だった。デスベースと呼ばれたこの基地で1 日に数十体ものデスボーグが生産され、ガチャフォースのボーグたちへ襲撃をかけていたという。しかし地 上におけるデスフォースの勢力は日増しに弱まっていき、デスフォースのボーグ達はこの基地を捨ててデス スカイベースへと移らざるを得なくなった。  そうしてデスベースが完全に放棄されるまでの防衛を任されたのが、リンのパートナーであるダークナイ トだった。ダークナイトはデスベースがコウとGレッドに発見されたことを知って一計を案じ、Gレッドの 奪われていたデータとリンへの想いをコウたちに託し、散ったという。  ここがデスベースだったころは、施設の床と壁の大半は黒い素材で造られていた。研究所が造られるとき に白く塗り替えられたのだが、ユージの提案で、ダークナイトが果てた場所の床だけは今でも黒いまま残さ れているのだ。 「ダークナイトの墓……か」  視線を黒い床に固定したまま呟くシンの胸中には、かすかな悔しさがあった。ダークナイトとリンの出会 いも、デスベースでの決戦も、デスブレンとの死闘も、自分がいないところで起こったことだ。  当事者になれなかった自分にとって、旧ガチャフォースメンバーの間に存在する絆は強固で不可侵なだけ でなく、自分と無縁なものである。リンの従姉弟であり、ショウの弟分であり、ユージの生徒である自分で あっても、彼らの輪の中に入ることは不可能だ。  どうして輪に入れないことを悔しく思うのか、その理由は分からない。だがリンとダークナイトの絆の証 である黒い床を見ていると、過去の自分がアクイラを持っていればガチャフォースの一員になれたのに…… という思いがこみ上げて来ることは確かだった。 6、  地上にある応接室では、キョウコとナナが向かい合って座っていた。両者が座っているソファーの間には 低いテーブルが置いてあり、話すのに適した距離が保たれている。 「あの……勝手に来ちゃって、すみませんでした」  先に口を開いたのはナナだ。目の前に背筋を伸ばして座っているキョウコに向かい、ぺこりと頭を下げる。 「そのことでしたら構いません。頭を上げて下さい」  言われて、ナナは頭を戻し始めた。キョウコはナナと視線が合うのを待ってから、 「今日あなたが来ていなければ、明日にでも呼び出して、話をするつもりでした」  と続ける。 「お話って……何でしょうか?」  わざわざ呼び出してまでするような話だ。さぞ重大な話を聞かされるのだろうと予測して、ナナはおどお どと尋ねた。ナナ専用機のトラブルだろうか。それとも発表会が延期になってしまうのか。何にしてもコタ ローとの約束が反故になってしまうことだけは言わないで欲しいと、ナナは内心に祈った。  質問を投げられたキョウコは、両目を閉じてうつむき、話すのをためらった。しかしそれも数秒のことで、 いつも通りの硬質な声で、ナナへの言葉を告げる。 「あなたと縞野君との約束が、絶対に叶わないということです」 「…………はぃぃ?」  奇声を発したナナの体(てい)は、目は視点が定まらず、顎は緩んで口が開きっぱなしになっている。茫 然自失になりかかっていることは、疑いようは無い。  キョウコは話の最初に爆弾を持ってきてしまったことを後悔した。約束が叶わない理由を説明する方が本 題なのに、ナナが話しを聞ける状態でなくなってしまっては本末転倒である。  その後、キョウコはどうにかナナの精神を繕いながら、後の説明を続けていった。 7、  シンは実験施設のキャットウォークを左に進んで、突き当たりにある自動ドアの前へと移動した。ドアの 脇には電卓のボタンような配置のパネルが備えられていて、ここではIDナンバーを打ち込まなければいけ ない。シンは面倒さに溜息をつきながらも、自分に与えられたIDナンバーを慣れた手つきで打ち込んだ。 「……基本スペックについては以上です。続いて、シンクロシステムについてですが……」  ドアが開くと、ユージの声が聞こえてきた。どうやら隣に立っている所長に向かって、アクイラについて の説明を行っていたらしい。一介の訓練生である自分が何ヶ月も前に知った基本スペックのことを、今にな って組織のトップが聞いていることに呆れの感情を覚えつつも、シンはユージがいる研究施設の中央へと向 かって歩みを進めていった。 「訓練生第一期、錦織信。到着いたしました」  カカトを揃え、背筋を伸ばしてシンが言うと、こちらに背中を向けていたユージと所長が振り向く。 「遅かったな、何をしていた?」  更衣室前で会ったときと変わらぬ見下した目が、シンに向けられる。シンは思わず目を細めて、にらむよ うな目つきを作った。 「まあまあ。予定時刻に遅れたわけではありませんし、ちょうど説明もキリがいいところでした。シン君、 実にグッドタイミングでしたよ」  シンと所長の間に走った緊張を察知して、ユージがほのぼのとした声を挟んできた。それでも所長はシン に眼光を送ったままだが、こちらの続行もユージの発言によって阻まれる。 「アクイラの準備は整っています。私達は先に行っていますので、受け取ったら実験施設に戻ってください ね」  言いながら、ユージは自動ドアの外へと出て行った。残された所長はシンの目を見据えながら、いちど 「チッ」と舌打ちすると、ユージの後に続いて実験施設へと向かっていく。  なんで自分たち訓練生の指揮官があんな大人なのか。シンは憎悪すら帯びているような鋭い視線を所長の 背中が自動ドアの向こうに消え行くまで浴びせ続けた。  所長の背中が完全に見えなくなってから、シンは表情から力を抜いた。しかし慣れない目つきを作ってい たせいで、顔の筋肉を緩めようとしても、目尻はすぐに下がってはくれない。じきに戻るだろうと割り切っ て、シンは踵を返した。アクイラを受け取るためには、さらに奥のフロアへ移動する必要があるからだ。  締め切られた地下室に、シンの靴音がひとつだけ響く。歩みが続くのなら靴音はいくつも続くはずだが、 靴音はたったの一回で途絶えた。その代わりに、シンの呻き声が部屋の中に響いていく。 「いだ、いだだだだっ!」  シンの両頬を、力強い指がつねっていた。シンは走った痛みに思わず目を閉じてしまったが、頬から伝わ ってくる手加減を知らない指の力から、誰が犯人なのかはすぐに分かった。まずは痛みから解放されるため に犯人の腕をつかんで頬から引き剥がし、さらに追撃を避けるため、一歩ぶんドアの方に退がって距離をと る。犯人に向かって抗議の言葉を吐き出すのは、それからだった。 「ミサキ! いきなり何てことするんだ!」  シンが叫んだ先には、シンとほぼ同じ身の丈をした女の子がいた。  相田美咲(アイダミサキ)。その明るくて無鉄砲で、本人の意思に関係なく他人を強力に引っ張ってしま う性格から、ユージから「2代目コウ君ですね」と評されたこともある。コマンダーとしての実力は総合4 位に甘んじているが、接近戦の攻撃力だけならシンを超えるほどの実力者だ。専用機は持っていないが、彼 女が使う量産機には接近戦に特化した改造が施されており、さらに“プラズマハルバード”と呼ばれる武器 を与えられている。 「だって、変な顔を戻したかったんでしょ?」  言ったミサキの目は、悪意をはらむどころか、まっすぐで透き通っている。その目に怒る気力を奪われた シンは、やる瀬の無い溜め息を吐き出した。 「確かにその通りだけど、つねるなんてダメだろ。そのせいで赤くなったら、余計に戻りにくくなるのにさ」 「あ、そっか。そうだよね」  言って、ミサキは「アハハハ」と明るく笑って見せた。シンはもういちど溜息をつきたい気分に駆られた が、今度は抑えて、ミサキに疑問をぶつけることを優先する。 「それより、何でここにいるんだ? 今日は専用機のテストだぞ?」 「ユージさんに頼まれたのよ。専用機の実戦テストの相手をしてくれ、ってね」 「……ちょっと待て」  専用機については、訓練生には発表会まで伏せられることになっているはずだ。なのにミサキが相手とい うのは、どうにも腑に落ちない。大体、それくらいの事情ならキョウコが隠す理由にもならない。 「それじゃ、今日の相手はミサキなのか?」 「違うよ。もともと別の人が相手をする予定だったけど、ユージさんは私に変更したかったんだって。でも、 所長さんが変更を認めなかったの」  ユージが訓練生への情報非公開を曲げてまで変更したかった対戦相手とは、いったい誰なのだろう。シン は疑問と不安を抱きながらも、アクイラを受け取るため、ミサキと別れて研究施設の奥へと進んでいった。